ココロのつぶやき@はてなブログ

南の島からの帰国子女で作家。2005年『講談社X文庫新人賞』受賞。現在、『文学フリマ東京』を軸に作品を発表中。

【00090】戦争の傷跡。

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父方の祖父は、明治生まれ。

 

明治生まれで……婿養子。

 

父方の祖父の家系のことは、実子である父でさえ……知らない。

 

祖父に関することは、国家機密レベル。

誰も詮索しない。できない。訊けない。

 

触れてはならない。

 

そんな祖父は、某所に抑留されます。

たまたま、婿養子先の祖母の一族はお金があったので、お金(賄賂だと思う)で帰国することができました。

 

捕虜としての滞在期間が長かったのか短かったのかは知りませんが、帰国後、祖父は、心が病むのを通り越して、心は壊れていました。

 

人間を信じることはできない。

この世で信じられるのは金だけだ。

 

……そう公言し、家族でさえ信じられなくなりました。

 
全ての一般紙とスポーツ紙を隅々まで読み、預金通帳を眺めるのが日課だったそうです。
 
3人兄弟の末っ子である父は、7歳になるまで祖父の顔を見ることができませんでした。
 
間違いなく祖父の子だというのに、祖父は父を受け入れることができず、虐待したそうです。
 
復員後は別人としか思えないくらいに人が変わり、家族への暴言や暴力が日常化。
 
男尊女卑の意識が強まり、長男と次男をあからさまに区別(差別)する。
 
誰もが理不尽だし、おかしいと思っていても、祖父は戦争で想像を絶する辛い体験をしたのだから……と腫物を扱うように接していたそうです。
 
虐待とあからさまな区別(差別)をされていた父は、祖父を恨むのではなく、祖父に認められたい一心で勉学に励み、就職し、海外赴任までし、都度、祖父に報告しに行ってはけちょんけちょんにけなされていたそうですが……祖父の最期までめげなかった(苦笑)
 
親の愛情を知らずに育った父は、私や弟への接し方がわからず、親として何かに躓くと、条件反射のように暴力でした(苦笑)。
 
親子の会話も不自由だったし、すぐに殴る蹴るだし、殺す勢いでムキになってくるし、母親に手を挙げるのも日常茶飯事だったし……負の連鎖反応って本当なんだな、と子ども心に納得していました。
 
父がすぐに暴力をふるうのは、育った環境が原因。
祖父母の育て方が悪かった。
 
母は母で、父にも子にもそう言って戦っておりました(苦笑)
 
たまたま、家族から死人が出なかっただけの話で、誰がいつ死んでもおかしくない暴力と応戦と怪我でした。
 
暴力はダメ。
話し合いで解決。
 
母は満身創痍でも根気よくそう言って父と向き合ってました。
 
子どもにしてみれば、殺されるくらいならとっと離婚すればいいのに……と思っていたし、一時的に匿ってくれるシェルターが欲しいと何度切望したことか(苦笑)
 
父も祖父も気の毒なのよ。
だからと言って、暴力の理由にはならないけれど。
 
時代の価値観なのか、祖母は祖父の言いなりでした。
死ぬまで祖父に関して愚痴ることなく、祖父をたて、奉っていました。
 
そういう祖母の姿も見ていた母だから、母なりに思うことがあって父と向き合ってきたのだと思います。
 
お陰様で、70歳を超えた頃から、父は穏やかになりました。
三つ子の魂百まで、なところもしっかりありますけれど(苦笑)。
 
父は生きている間に救われたと思うけれど、祖父は、どうだったんだろう?
 
阪神淡路大震災関連で祖母を亡くし、4年後に祖父も他界しました。
 
祖母の遺産関係で一族がぐちゃぐちゃになり、金の切れ目が縁の切れ目……で、祖父の傍から親戚は消えました。
 
私以外は男の孫たちで、みんな、お金目当てでおべっか使っていたのは公然の事実だったけど……酷い豹変ぶりでした。
 
そんな一族を横目に、私は、祖母の1周忌からお盆には祖父のところへ遊びに行きました。
 
祖父の戦争体験は祖母からもちらっと聞いていたし、戦争が原因で心が壊れちゃったのも納得な生き方だったし、明治生まれなのに婿養子だし、素性は不明だし……そんな祖父はずっと哀しみを抱えて泣きながら生きてるんじゃないかな?と勝手に思いました。
 
私には、ずっとそう見えていたのです。
 
だから、ある意味、急死だった祖母のこともきちんと受け入れられてなさそうだったし、今後のことを思って途方に暮れているかもしれない……と思って、事前に遊びに行くことを伝えた上で、行きました。
 
……が、1年目は、門前払いw
 
塩をまく勢いで、門前払いw
 
男尊女卑な人だし、祖母の遺産の件で人間不信にも磨きかかってるのわかってたから、私にとっては想定の範囲内
 
結果、門前払いだったけれど、数分は会話できたから良しとする(笑)
 
2年目も、事前に遊びに行くことを伝えて伺う。
 
2年目は、お家に入れてくれたけれど、それだけ(笑)。
 
お茶も出してくれずw
 
ただ、お座敷で私と向かい合って座り、新聞を読む祖父。
私が帰るまで、新聞読んでた(笑)。
何回、同じ新聞を隅々まで読んでたのかなぁ?(笑)
 
私は私で、10時~17時(←)の間、勝手にひとりで自分の話をしてました(笑)
 
3年目は、事前に連絡したら、10時頃からではなく、お昼過ぎからなら来ても良い、と言われました(笑)
 
お昼、用意しておくから、と。
 
3年目にして初めて、祖父と話をしました。
生まれて初めて、祖父と話をしました。
 
祖父は、ちっちゃな男の子ようでした。
 
いろんな話(主に経済や株や政治の話)を、「オレ、こんなに知ってんだぜ?」みたいな得意気に話してくれました。
 
17時過ぎまで、マシンガントークでした(笑)。
 
それからは祖父が亡くなるまで、文通しました。
 
マジで毎日最低1通は届くw
 
毎日毎日、日曜日以外は手紙が届いてました。
私も、がんがんお返事してました。
 
……けど、達筆なのか年寄りで手が震えてるだけなのかわからないけれど、判読不可能な文字が多すぎだったので、会話、かみ合ってなかったかと思われ(笑)
 
4年目のお盆は、祖父の新盆になったのかな?
 
大病もボケもせず、呆気なく、ぽっくり、ひっそりと亡くなりました。
 
私の手元には祖父からの大量の手紙が残り、両親は目をぱちくりして驚いていました。
 
父は、祖父が書いた手紙を何度も読んでは泣いていました。
 
5月5日生まれで、5月23日に亡くなった祖父。
 
そこまでは、なんてことのない、普通のお話なんですけどねぇ……(遠い目)
 
そこから先が、世にも奇妙な物語、になるのですよ……(遠い目)
 

 

 

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