実母は池坊の准教授で、シンガポールに13年間滞在していた頃は、池坊由紀さんとも懇意にさせてもらっていました。
シンガポールから2年間LAへ直行赴任している間もいけばなの活動はやっており、帰国後……もう何年になるんだろう?約20年?くらいの間、母はボランティアで老人ホーム3か所を軸に生け花を教えに行っています。
母も年齢的には老人なのですが今も颯爽と教えに行っています。
ボランティアの合間にチェロも習いに行っているので(これも、帰国してからだから……約20年くらい?)、元気ですわ(笑)
チェロは、シンガポール時代に、ヨーヨー・マの演奏を何度も聴きに行っていて(当時のシンガポールは娯楽が乏しかったので、音楽会くらいしか楽しみがなかったのです)その音色に魅了され、ついでに、関係者の心遣いでお話をすることもでき、感動して始めたというミーハーな動機です(苦笑)。
それでも、今もずっと習い続けてるんだから……すごいです。
私は、3歳から30代までなんとかかろうじてピアノを習えていたけれど、人生の転機(笑)で持ち家暮らしではなくなったので、ピアノから離れてしまったのから余計に、音楽を続ける環境を維持しているところも素晴らしいと思っています。
話を戻しましょう。
1997年、母はシンガポールで生活中だったので、華展の為の一時帰国でした。
年に一度だか数年に一度だか、池坊の本家がある京都にて大きな華展が開かれており、母はシンガポール支部からの出展でやってきたのでした。
私は私で、父方の祖母が『真生流』のお偉いさんだったので、後継者に……と師範の免許までは取得しましたが、まったくもって活かされておりませんw
個人的には、池坊を学びたかったのですが、センスが壊滅しているから無理と母に太鼓判を押されて却下されました
それでも、勉強になるから……と、シンガポール時代は池坊の華展で母が携わっている時は出展させてもらったり、小間使いとしてこき使われ続けました。
この時は、母のマネージャーでした(笑)。
『マネージャー』と言えば聞こえはいいけれど、体感は、シンデレラw
朝から晩まで、容赦ないこき使われようでした(笑)。
それはさておき。
華展に出展するって、最初から最後まで過酷
集客もしなくちゃならなくて、私は華展で集客方法や集客の難しさを学びました。
華展のチケットも決してお安くないし、華展は1度きりではないので、いかにして(開催日未定でも)次の華展にも気持ちよく足を運んでもらうか……も踏まえての集客、ほんと、毎度毎度、地獄を見ましたw
草の根運動、日頃の付き合い、お食事会、お中元/お歳暮、何かしてもらったら即『御礼状』、お声がけいただいたら(華展とか個展とか)笑顔で駆けつける、お花贈る……日々のルーティン作業w
日本人、義理人情、大事にするからね~
池坊由紀さんともたくさん交流できたので、いろんなことを学べました。
当時も何度も思ったけれど、池坊由紀さんがシンガポールに赴任されていた時代とたまたま被ったというのは本当に奇跡でした
情け容赦なくこき使われているのが見てわかる1枚(笑)
(時々1位!ありがとうございます)
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